【発達凸凹情報サイト 伊藤学園長インタビューより】
インクルーシブ教育の落とし穴は、ゴールの設定です。
みんなと同じにすることや、友達に迷惑をかけないようにすること、先生に手をかけないことがゴールになっているとすれば、それは考え直さなければいけないと思います。
つまり、物理的にみんなと同じ空間にいられればよしというところへシフトしているなら、それは本人の成長や個性を全く保障していませんよね。ただ何となくそこにいるだけでは、子どもは成長しませんよね。
そういう意味ではいじめの問題も同じです。
表面的にいじめがない状態をつくるのでは、意味がありません。ましてや、先生が障害理解を保護者や生徒たちに訴えて、「だからみんなでこの子を大切にしてあげよう」という事でいじめがなくなるのだとしたら、これはひどい差別だと思っています。
それは上位の側からの優越感にぶら下がった平和にすぎません。
教育の根本は、そんなものではないですよね。
誰もが意義なく認める才能を見つけて、伸ばしてあげる。
あの子はウロチョロしているけどこんな才能持っているんだ、とか、
この子はこだわり持っているけど、とても真似できない部分があるというような、誰もが意義なく認める才能をみつけて伸ばしてあげる。
これも実はいじめの教育から発展していることです。単なる表面的な平等ではなくて、その子の本当の可能性を伸ばすことで、お互いがお互いの人間の可能性を心の底からみとめあう。
そういった人間の可能性を目の当たりにしたときに、障害を持っている本人や、周りでみている子達のココロの奥底が揺さられて、変わっていくんです。そういう教育をすることによって、いじめをなくしていく。それが、教育の根本ですよね。
道徳の時間に悲しい文章をみんなで読んで、いじめはいけないよね、とか、この人はこんな障害を持っていても頑張って生きているんだから優しくしてあげようとか、そのような教育とは、わたしたちは考え方が全く違うのです。その分、手間はかかりますけどね(笑)
先生たちにも学生たちにも、よくする話があります。
世界のひとつだけの花の話しです。
花屋の店先にならんでいる花なんて、相当エリートだからね。
君たち、基本的に花屋の店先に並んでないんだよ。
あれは、画一化されたもの、選別されたもの。
だから、あそこにいるだけで相当なエリートなんだ。
君たちは、花屋の店先に並べなかった。
でも、野に咲く自然な美しさに、人はこころ惹かれるんだよ。
だからそういう教室にしたいんだよ。
花屋の店先にならぶ花たちに、君たちはなってほしくない。
だからあの歌うたうな、ってね(笑)
でも、私も子どもたちもあの歌が大好きで、すぐ歌うんですけどね。(笑)
いじめや差別については、先生たちや生徒たちと、本当に病的なほど神経質にやっています。
やっぱりね、特別支援教育をしていると、どこかでわたしたちは子どもの障害のせいやハンディキャップに責任転換してしまえるんですよ。
しかも、それを『みんなそうだよね』と言ってもらえる環境ですからね。
絶対に、子どものせいにしない。
親のせいにしない。
環境のせいにしない。
地域のせいにしない。
とにかく、子どものせいにしないということをどこまで追求できるか?
そういうことを追求しながら、本当の意味での平等を目指しています。
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この記事は「発達凸凹情報サイト」に掲載された伊藤学園長のインタビューを転載したものです。
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■インタビュー原文
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